マナーと周りへの注意について

「おまえは、マナーがなってない」*1
果たしてこれが、5年も社会人をやった人間が受ける叱責だろうか。しかし、確かに受けてしまったのだ。うわの空の精神状態で便所に入ろうとしたところ、入り口の向こうに何か障害物が見えたので咄嗟にかわして前に抜けたら、その障害物とは職場のえらい人であり、普通出る者を待つだろうがボケ、と即座に叱られたという次第であった。


その場では「なんだと、この――」と思った。――しかし、席に戻ってつらつら考えること数分、確かに自分には「マナー」というものが何だかまるで分かっていないということを、認めざるを得なかった。
そうだ。僕は物心ついて以来、マナーとか躾とか立居振舞とか、そうしたものを根本の部分で無意味な形式主義と決め付けて嘲い続けていたのだった。過去にも無数回、「おまえはマナーがなってない」に相当することを言われ続けていたような気がする。そうだそうだ。最近1年だけでも4回は言われてしまったではないか。でもその都度「へへーん」でやり過ごして今日まで来てしまったのだ。
ではなぜ今日になって、初めて自分のマナーの欠如を反省する気になったのか?
それは、ここ数ヶ月、自分が対面して人と接するときの身振り手振りの仕方が、ものすごく格好悪いのではないか、という気がしてならなくなっていたからだ。どうも自分のおじぎの仕方、コーヒーの飲み方、振り向き方、いちいちサマになってないような気がする。周りの人たちは「大人の動き方」をしているのに、どうも自分だけ「子供の動き方」のままな気がしてならない。ものすごく挙動がキョドってる気がする。たぶん自分は今のままではコンビニの店員さえ務まらないのではないか。そんなふうに、30年近く生きてきてまるで気にならなかったことが、ようやく数ヶ月前から気になり出していたのだ*2。そうした部分にに自信がないからこそ、初対面の女性に対して殊更にビビらなければならないのではないのか。そうか、その「大人の動き方」を可能にするものこそが「マナー」というやつか、そうかそうか、と一人合点するのだった。ああ、立居振舞を正しくすることのご利益を、早く実感してみたい。


さらにもうひとつ。
理想を言うと、いかにうわの空になっていたとしても、冒頭の条件下に置かれたときには、すっと身を一歩退いて「すみません」のひとことも言えるくらいにマナーを肉体化すべきなのだろう。しかしそれ以前に、会社の廊下を無防備な精神状態で歩いていること自体、よっぽど危険なのではないか?
だから、次に席を立って会議室に移動するとき、自分の周囲に意識を配りつつ歩くことを試してみた。……ああっ、この感覚は……、まるで自動車を運転しているときのようではないか?? そう、不意に、教習所での感覚が蘇ったのだった。
かねてより自分は、自動車の運転についてこう考えていた。「僕はなんとかして運転免許証を取ることが出来たけれども、あんなふうに周りに注意することを継続することなんてとてもできない。万一運転する羽目になったら数分で人をはねてしまうに違いない。みんなよく車なんて運転できるなあ」と。
しかし今日気づいた。みんな自動車では、普段街を歩いているときの注意を、いくばくかグレードアップさせているに過ぎなかったのだと。自動車の運転に必要な注意を100とすると、普通の人は普通に歩いているときでも1-2くらいの注意を常に行っていたのだ。注意ゼロの状態で、ヘラヘラとはてなのことなぞ考えながら往来を呆けた顔で歩いているのは、自分だけだったのだ。
ついでだから、帰宅時も同じような調子で歩いてみた。……おお、この世界の圧倒的なリアリティはなんなんだ! こうして、このところとみに自分の感受性が鈍っていることの原因さえ判明してしまった。どうも、どこへ行っても何を見てもさっぱり感動できない状態がここ一年くらい続いていたのだが、それは要するに、半径3メートルより遠くに注意を払うことを、久しく忘れていたからなのであった……。

というわけで、先日予感していた節目の日は、どうやら今日だったようです(劇的ってほどでもないかもしれないけど)。めでたいめでたい。

*1:より正確には、「おまえ」の部分は僕の本名。

*2:これが気にならないままの人が、あるいはキモヲタと指弾されるのかもしれない。