「論理的な日本語」は不自然な形をしているはずだ

「日本語は論理に向いていない」という説が時々主張されるが、僕はこれに全く同意しない。それは日本語という言語自体に欠陥があるせいではなく、あくまで日本語を運用する日本人の問題であると信ずる。言語に責任を転嫁してはいけない。
ただし、論理的な日本語というものがあるとして、その文体は、「非論理的な文体」に慣れきった我々にとっては、きっと「不自然」で「ぎこちない」と感じられるものになるに違いない。だけどそれこそが、言語を育てるということなのではないか?