anotherの作り方・高校編
あちこちで囁かれているあ〜る話に便乗した自分語り。僕がこんな話を語り込むのも珍しいことだけど。
1975年に生まれ、1991-93年に高校時代を送った自分にとって、「究極超人あ〜る」はリアルタイムの作品ではなかったけれども、それでも、文化系のバイブルとして多大な影響力を持っていた作品であったことは確かで(ちょうど愛蔵版が出回っていたんじゃなかったかな)、「うちこそ光画部!」と公言してはばからない文化部員は周りにゴロゴロしていた。
で、ここからは自分語り。
基本的に僕の高校時代は、その手の分かりやすいものにハマる同輩を醒めた目で見る人、というスタンスで(あー、昔からやなやつでしたねー)、自分自身は当時の流行とはまるで無関係なものばかり追いかけていたものだ。
高校時代を通じて僕が一番ハマっていたものは、「糸井重里の萬流コピー塾」だった。週刊文春の連載はもちろんとっくに終わっていたので、ひたすら単行本を読み漁った。で、その次が路上観察関連。赤瀬川原平とか南伸坊とか。
音楽は母の趣味が影響したのと、自分の強硬な反流行主義のせいで、高校を通じてほとんどクラシックジャズ一本。大槻ケンヂには少し関心があったけれども、遂に彼の曲を聴くことはなかった。
深夜ラジオは、北海道には幸か不幸か「うまいっしょクラブ」や「アタックヤング」のような十分に面白いローカルの番組が存在していた*1ので、電気グルーヴのオールナイトニッポンなどには手を出さずじまいだった。というか、クラスにそんなの聴いてる人はいなかったし、仮にいたとしても、名乗り出なかった。ほとんどみんな明石英一郎で満足していたのだ。
ああ、あと、1980年製のあやしげなマイコン(質量20kg、グリーンディスプレイ、とりあえず製造年にしては珍しくフロッピードライブがついていたけど、BASICのディスクしかついてきていなかった)でコンウェイのライフゲームとか動かして喜んでたっけ。
要するに、僕は、一人で勝手に90年代初頭をほとんど80年代として過ごしてしまったのだ。実に特異な高校時代だった。
ついでに、僕には、自分の趣味を誰かと共有しようなんて考えはまるでなかった。「マイナーな趣味の共有」がオタクとして重要なメルクマールだとするならば、僕は結局昔から全然オタクではなかったのかもしれない。そしてそのへんの、自分さえ面白ければ人を巻き込む必然性は別に感じない というメンタリティは、相変わらず今でも一緒だと思う。
「では、家元は帰るぞ。」