厳父について

僕の父は、手違いとか行き違いということについて、むやみに不寛容な人物であった。いや、ある。殺しちゃいけない。
世間の大抵の人は、日常生活で発生する手違いの発生率が1%程度だったとしても、とりわけ何とも思わずやり過ごしている。しかし父には、それさえ許しがたいデタラメと映るらしいのだ。「まったく世の中どいつもこいつもいいかげんで困る」、よくそうこぼして暮らしている。
エラーを極限まで減らす。ビジネスでは立派な態度だ。が、父は日常生活にまでこの態度を押し通している。父は言うだろう、「日頃適当にやってる奴が職場でだけびしっとできるはずがない」と……。多分父にとって、エラー率は1万分の1でも我慢ならないに違いない。仕方がないから100万分の1で勘弁してやるか、と言わんばかりなのだ。
人の5倍から10倍は何事もとにかく確認する。棚から持ち出したものは絶対に元の位置に戻す。考え得る全ての可能性について根掘り葉掘り問いただし、不測の事態の可能性を徹底的に潰す。何か計画がうまくいかなかったならば、それは計画の立て方が甘かったか計画を遂行する意志が欠けていたかのどちらかだ。そんな調子で、家人が適当なことをやるのも全く容赦しない。
そんなだから僕は、父がうっかり何事かを忘れてしまったとか、下調べが足りなかったせいで無駄な買物をしてしまったとか、そういうところを見たことが、18年間一緒に暮らしてきたのに、本当に、全くない。
しかし父が車をまだ運転していたころ、2年に一度は追突されていたものだ。これは、やはり父が万事につけ「確認のしすぎ」だったことを意味していないだろうか? 過剰に確認をしすぎることによってかえってリスクが増す場合さえあるというのに。
おかげで僕は、ようやく一人暮らしを始めてから、「日常生活ではそんなに何事も厳密にやらなくてよい」ということに気づいたのだった。